トップインタビュー好きなことに没頭したら、人が集まる空間ができた。向島のリトルロンドン・マスター

2020.03.02
好きなことに没頭したら、人が集まる空間ができた。向島のリトルロンドン・マスター

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Ipcress Lounge(イプクレス・ラウンジ) 
店主 阿部 訓諭 さん

スカイツリーも程近い墨田区向島でアパレルショップ&バー「イプクレス・ラウンジ」を営む阿部訓諭さん。“向島のリトルロンドン”と地元のお客様に親しまれる一方、ヨーロッパ・アメリカ・アジアから服を買い求めるお客様もいるそうです。

ファッションデザイナーを目指して文化服装学院を卒業後、アパレル販売員を経てタオル問屋に就職し、そこで才能を見出され思いもよらず営業職に就きます。しかし、営業職として力を発揮する一方で人間関係のストレスが原因により二度の入退院を繰り返します。二度目の病床時に「これからは自分のやりたいことだけやってストレスと無縁に生きていこう」と決意したそうです。退職後は柄シャツオーダー専門店「イプクレス・ラウンジ」を立ち上げ6年間を恵比寿で過ごします。2011年向島に移転後はバーを併設したアパレルショップとして9年間経営してきた阿部さん。10年商売を続けられるのはほんの一握りと言われる中で、長く商うために大切なことをお聞きしました。

入院したことで決意。「自分のやりたいことだけやって生きていこう」

ロンドンテイストに惹かれるようになったきっかけはなんですか?

高校時代に先輩がお薦めしてくれたイギリス映画「さらば青春の光」に魅せられたこと。また、当時同じクラスのお洒落な女子から「イギリスのモッズファッションやフランスのイエイエルックなど細身のきれいめファッションの方が似合うのでは?」と言われたのがきっかけですね。私の人生に大きな影響を与えてくれた、この二人には本当に感謝しています。

当時、私はファッション雑誌で度々紹介されるモッズファッションに疑問を感じていました。流行の最先端を作り出したモダニストに憧れを抱きましたが、ファッション誌に紹介されているモッズファッションはみんな同じような格好に見え違和感がありました。自分たちの色を出してファッションを楽しんでいるようには見えなかったのです。

そこで高校3年生の時に、本当のモッズを知るために本場ロンドンのモッズクラブに潜入して。そこでダンスを楽しむ人たちは、男性も花柄やペイズリー柄を着ていたし、ピンクやイエロー、グリーンなどとにかく色を楽しみ、柄を楽しんでいました。当時ロンドンモッズの溜まり場だったWAGクラブに行ったことで日本で感じたモッズファッションの違和感から解放され、モッズの魅力を存分に知ることができました。

1960年代のロンドンは音楽やファッション、アートを中心に黄金時代だったと考えています。特に1966年~68年の3年間でユースカルチャーは頂点にまで達し、ファッション史では「スウィンギンロンドン」と呼ばれています。学生時代に西洋服飾史の授業でも学びましたが「私が好きなテイストはこれだ!」と改めて気が付きました。そして、ここで自分がファッションを楽しむだけではなくデザイナーとしてファッションブランドをプロデュースすると決意しました。

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創業までに至った経緯を教えていただけますか?

デザイナーやマーチャンダイザー、プレス、バイヤーなど、アパレル業界のどの職業を目指すにも「まずは販売職を経験しなさい」と学生時代に教わりました。 卒業後、短期間でしたがアパレル物流や販売員を経験しました。しかし、華やかなファッション業界のイメージからは程遠い過酷な労働環境で。長時間労働や日々数字を追求されるプレッシャーの中で悩み続けました。それに、私は自分ではない誰かが作った服をお客様に販売して売上を積み上げていくということにストレスを感じてしまい……。それが起因して体調不良が続き、ひと月入院することになってしまいました。復帰後も体調不良が続き、健康面を考慮してアパレル販売員を辞めました。

その後、ご縁もありタオル問屋に就職し心身共に回復していきました。タオル問屋にいた経営コンサルタントの先生が、「阿部さんは10万人に一人の逸材」と営業の才能を見出してくれました。先生に提案営業のイロハを学び、営業マンとして経験を積みました。タオルやTシャツをOEM企画提案する会社でしたが、ありがたいことに飛び込み営業した企業様が次々と新規に契約してくださって。営業成績は常に掲げられた目標以上を達成することができました。営業職が天職とさえ思うほど没頭しましたね。

しかし、営業活動や目標達成を追求するほどに私をサポートする社内の人たちとのコミュニケーションが減り、気付いたときには社内で孤立していたということもありました。目標達成に没頭し、周りが見えなくなっていたのだと思います。次第に社内での人間関係や環境に再びストレスを感じるようになり、2度目の入院と全身麻酔による手術を経験しました。

退院する際に主治医に、「ストレスフリーに活き活きと働ける職場や働き方を真剣に考えてみてください。さもなければ、また同じ病気を繰り返しますよ」と言われました。その言葉が自分の今後を考えるひとつのきっかけになったんです。「自分のやりたいことだけやって生きていきたい」と決意しました。

ストレスフリーでやれることが、阿部さんにとってやはり「デザイナー」だったのですね。

そうですね。まず、私はファッションデザイナーになるためにはどうしたらよいのだろうかと真剣に考え続けました。病気を克服し、プラス思考に転じた時に答えはすぐに出ました。「ファッションデザイナーは資格・試験があるわけではないので、とりあえずなってみよう。そのあとで足りないものは恥をかいてでも後から補うほうが近道だろう」と。

早速、名刺を100枚注文し「ファッションデザイナー阿部訓諭」と名乗り、自分がデザインした服を着てモッズの集まるダンスクラブにプロモーションで踊りに行きました。暗いダンスフロアでも私のシャツは目立ち注目してもらえました。ダンスも練習して上手に踊れるようになりました(笑)。徐々にダンスクラブでの友人も増え、バンドやDJからのオーダーも入り始めました。そして、私の作ったシャツを着てステージ栄えする演者のパフォーマンスを見るたびに自信を付けていきました。

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店内には阿部さんがデザインしたシャツやファッションアイテムが並ぶ。

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靴職人とコラボして生まれた革靴も並んでいる。

“商いは飽きないこと”
続けていくためには、飽きない工夫が大切

自分にとってストレスフリーな生き方をすると決意され、どのような経緯で現在まで辿り着いたのでしょうか?

タオル問屋の営業職を離れ、通信関係の商材を扱う営業の職に転職しました。デザイナーとして、より活動の幅を拡げていくためにも店舗が欲しいと考え、営業の仕事をしながら資金を貯めていきました。そして、恵比寿に「イプクレス・ラウンジ」という4坪ほどのシャツのオーダーメイドのお店をオープンさせました。

日中は営業で走り回り、夜は自分のお店でシャツのオーダーを受けていました。そこでは購入したお客様へのおもてなしとしてコーヒーやカクテルなども出したりしていましたね。ドリンクにも拘っていると次第に美味しいと評判となり、いつしか友人の溜まり場となりカクテルを目的に来る友人が増えて(笑)。それが、現在の「イプクレス・ラウンジ」のバースタイルにつながっています。

恵比寿の店舗は6年営業し、3回目の物件更新のタイミングでこれから面白い街に移動しようと探し始めていた時に、建設途中のスカイツリーを見て周辺地域に可能性を感じました。なかでも一番ワクワクしたのが浅草とスカイツリーを結ぶ導線になるであろう向島一丁目エリアでした。

見つけた物件は、内覧したら建物内部は3〜5年手付かずの荒れ果てた状態でした。それでもウインドーの大きさ、そしてスカイツリーが一望できる立地に惚れ込み即決してしまいました。それが現在の場所です。

そこからオープンまでは大変だったのではないでしょうか。

私は計画的に進めるよりも、その時のご縁を大事にする勢いのほうがあって、今振り返ってもかなり大変でしたね。最初は、物件を契約したものの契約金を振り込んだら一文無しとなってしまいました。翌月から発生する家賃のこと、店舗の内装工事や、厨房機器や空調、什器などの設備費用、酒や食材の仕入れ費用など必要資金を考慮する前に物件を決めてしまっていたんです(笑)。

そのために、目標としていたオープンまでの約2か月間は朝から夕方まで営業で走り回ってまとまったお金を確保することに努め、夜に自らDIYで内装工事を行いました。厨房機器や什器などはネットオークションで落札し、送料を浮かせるためにトラックで引き取りに行ったり。いよいよオープン直前という時に東日本大震災が起き、軒並み飲食店やイベントごとは自粛ムードが高まりました。しかし、食べていく、生きていくにはオープンを延期するという選択肢は私にはなかったので、なんとか当初の予定通りオープンをしました。

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並べるお酒もロンドンパブのテイストにこだわったものを揃えている。

オープン当初は、将棋が指せるバーとして人気になったそうですね。

実は、私は4歳のころから将棋を指していて。とある将棋に夢中な近所のご家族と毎週のように将棋を指していたら、酒を飲みながら将棋ができる場所があると噂が広まって。お客様は飲みながら次の一手をゆっくり考え将棋を楽しみ、私はお酒を作りながら、複数人と同時に指すいわゆる「多面指し」をやってましたね。そのうち、将棋が指せるバーとしてちょっとしたブレイクをして。当時、棋士の藤井聡太先生の人気も相まって、藤井先生の対局時にはメディアがやってきて、イプクレス・ラウンジから生中継をするなんてこともありました(笑)。

来る日も来る日も将棋好きのお客様で満席となり、将棋倶楽部を発足しました。登録メンバーはあっという間に300人を超え、いたるところで毎月将棋大会を主催しました。2~3年は私も将棋に没頭し、ついに初段まで昇り詰めました。

しかし、ある時お客様の声に耳を傾け、自分が本当に来て欲しいお客様たちが離れてしまっていることに気が付きました。将棋を楽しみにしてくださるお客様にこの現状と私の想いを伝え将棋倶楽部を解散しました。私のわがままを許してくれた将棋倶楽部のメンバーには今でも申し訳なく思っています。

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いたるところに工夫が施された店内のインテリア。

お店の「将棋」というイメージを変え、何度もお客様に訪れていただく秘訣はどこにありますか?

開業当初の思いに立ち返り一からのスタートを切りました。しかし、将棋のイメージがすっかり定着していたので、音楽やファッションが好きな人、デートで訪れる人、お洒落な雰囲気が好きで来てくれていた人たちは完全に離れてしまった状態でした。数か月は閑古鳥が鳴いていましたね(苦笑)。一番大事にしていた車やバイクも全て手放し、お店を早仕舞いして数か月間は再び営業の仕事をしてダブルワークで乗り越えました。
たとえ、お客様がゼロになっても、副業をしてでも家賃さえ払えればお店は続けていけると前向きに考えていました。一度始めたことは最低でも10年続けていく。それだけの覚悟と自信は持っていたと思います。

仕事を終えたある日、40年のベテランタクシー運転手に「商売っていうのは『あきない』って書くだろう。飽きないような工夫が大事なんだよ」とお話しいただいた事があったんです。なるほどと思い、そう言えば自分も店内装飾やメニューにもちょこちょこ変化を加えてみたり、飽きないような工夫を意識せずにしてきたなと思い返しました。

「思いついたアイデアは全部いいこと。悩み考えるよりまずはやってみる」これが私の信条です。自分のお店ですし、何度でもやり直しやアップデートをすることは出来ると思っているので、まずは閃いたアイデアを全部やってみるようにしています。試している過程もお客様に楽しんでいただけているのではないかと思っています。

自分自身が好きなことで輝いていれば、人を惹きつける。好きなことに没頭することが人を惹きつける。

厳しい状況でも強い意志で乗り越えてこられたんですね。

私は過去二度の病気がきっかけで、精神的なストレスの掛かる仕事は自分には向かないと考えています。自分の信頼できる大好きなスタッフと大好きな音楽、ファッション、お酒、インテリアなどに囲まれていることが生き甲斐でストレスフリーどころか毎日が楽しく過ぎていきます。

飲食店に限らずどんな商売でも同じかもしれませんが、一つの商売を10年続けるっていうのは本当に難しく、それが出来るのもほんの一握りの人だと思います。私はあと少し、そこを目指したいと続けてきました。一度お店を持ったら10年は続けてみたい。いつか後継者にバトンタッチしたら、また何か次の新しいことにチャレンジしてみたいと考えています。そもそもお店を閉めて原状復帰をすることを考えたらゾッとするのです。当初の物件を思い出せないくらいに、内装を作り込みすぎているので(笑)。

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お店を訪れた外国のお客様からお手紙が届くことも。

創業から10年が近づいていますが、これからどのようなことをされていきたいですか?

イプクレス・ラウンジの2階には「SUPERNOVA」という実験的なバーを作っているのですが、今年6月からは2店舗を連動し同時営業をしていく予定です。1階では居心地のよい落ち着いた空間を提供し、2階ではイベントやギャラリー営業などを取り入れ音と光の非日常体験を提供します。現在はそれぞれの空間を同時に楽しめる仕組みを模索し、改修工事の準備を進めています。

私は常に裏付けのない自信から、思いついたことを無計画にすぐに行動を起こし、実現に向けて迷走します。結果的になんとかやり切ってしまうのですが、それは周りから見ると危うさを感じさせるそうです(笑)。私としてはやり切る自信と覚悟を持って行動に移しているつもりなのですが、結果として周囲の人たちに助けられ、応援してもらうことで乗り越え今があると思っています。これまで出会った人達に本当に感謝しています。

私は、自分自身がやりたいことを貫いて活き活きと活動していれば、輝いて見え人を惹きつけると思っています。自分の好きなことに突っ走っている人、努力して一生懸命頑張ってもがいて何かに打ち込んでいる人って魅力的に感じるんだと思います。魅力的な人には自然と人が集まってくるんじゃないでしょうかね。

最後に創業や何か新しいことを始めようとしている人にメッセージをお願いします。

まず、自分が始めたいことには資格試験などライセンスが必要か考えてみるとよいと思います。それが必要無いのならば、まずやってみる。例えば、それが飲食店ならば保健所の営業許可に2万円を添えて申請書を役所に出すことで開業ができます。デザイナーであれば、今日からでもなれるでしょう。WEBショップから始めるのも、それほどリスクにならずにできる。店舗を構える場合、たとえ場所が悪くてもSNS発信で隠れ家的な要素を売りに行列を作っているお店もたくさんあります。

まず現状でやれる方法を考えて、最初は見切り発車でもアクションを起こしてみるとよいと思います。考えても迷っても時間は過ぎていってしまうので、早くスタートをして、多少の失敗があっても二度、三度と繰り返していくうちに、きっと上手くなっていくでしょう。最初から大成功といかないことのほうが大半なのではないかなと思うので、そこから這い上がる覚悟を持って、どんどんチャレンジしていけばきっと道が開けてくると思います。

私も将棋を売りにして失敗し、仕入れ過ぎにより資金繰りに失敗して、税金も払えなくて失敗して……。いろんな失敗をして、いろんな方に迷惑を掛けてしまうこともありましたが、それでもピンチを救ってもらったり、自分でなんとか取り返したこともあります。9年経ち、ようやく少しずつ安定してきましたが、きっとこれからも失敗をすることはあるでしょうね(笑)。そうなったら、また昼間にこっそりバイトでもして、一から出直してまた生き返ります。

何か迷っていることがある方は、ぜひイプクレス・ラウンジにお立ち寄りください。きっと何かきっかけになると思います。

 

Ipcress Lounge(イプクレス・ラウンジ)

2011年オープン。スウィンギングロンドンに惚れ込んだマスターによる、ヴィクトリアンパブでオリジナルモヒートやロンドンプライドを提供している。一方でオーダーメードシャツの受注・一部既製品とTシャツの販売も行うなど、バーとアパレルが融合したサービスを展開。ファッションアイテムを求めて日本中、世界中からお客が訪れ「向島のリトルロンドン」と親しまれている。

取材・写真:伏島恵美

この記事を書いた人

伏島恵美

フリーライター。出版社などで校正・校閲とホテルの客室清掃に従事したのち、各種のユニークなイベント運営にも関わる。生き生きとした人の姿を伝える活動をスタート。